万大醸造を訪れました。

伊豆の地酒蔵元の万大醸造に前日電話をかけました。
すると、電話の向こうから、軽やかな、しかも、気品ある声が聞こえて来ました。
簡単に、訪問したい旨の説明をすると、快く、「それはそれは….、お気をつけていらしてください」と返って来ました。受話器を置いて、初めて、「いくつくらいのおかみさんだろうか?」と思うほどでした。

翌朝の10時過ぎに蔵元を訪問しました。場所は修善寺駅から車で10分くらいの高台にありました。そこからは、伊豆の田代の田んぼが見渡せました。
私どもが訪れた時には、かの高貴なおかみさんが待ってくれていました。
蔵元の門は、思ってた以上に立派で、門を入ると直ぐ左に立派な屋敷がありました。そこには大きな池があり、山から流れる綺麗な水の中に立派な鯉が泳いでいました。

おかみさんは直ぐにその屋敷に案内してくれました。その屋敷はショールームに使われているようで、そこには蔵元が作っているお酒、焼酎、ワインなどがたくさん並べられていました。この屋敷はあるお寺の建物を移築したもので、なるほど、お寺の雰囲気が残っていた。

早速、おかみさんは、私が質問する前に、先代の”おかねさん”の話を始めました。

私はおかみさんを制して、「万大醸造は、いつからお酒を作っていたのですか?」
すると、おかみさんは多分、”おかねさん”の3〜4代前からではないでしょうか、とはっきりした回答は得られませんでした。江戸末期か明治の初めかもしれません。
ところが、話のところどころに、江川太郎左衛門の話も出てくるので、私なりに、江戸末期にスタートしたものと解釈しました。

因みにおかみさんの名前は久枝さんと呼ぶそうですので、ここからは親しみを込めて久枝さんを使わせてもらいます。
久枝さんにとって、今の万大醸造を語るには、やはり、”おかねさん”抜きには語れないようです。

その”おかねさん”は随分と働き者で、久枝さんが嫁いで来た時には、すでに、伊豆全域に”おかねさん”の名前は知れ渡っていたそうです。
当時の”おかねさん”は万大醸造のお酒を何とかして売らないといけないと必死だったようです。男勝りの”おかねさん”の頭の中は、いつもお酒を売ることだけしかありません。だから、家事のことは一切御構い無し。当然、衣食住も御構い無し。着るものも自分で買うことなどなかったそうです。
そんなところに嫁いできた久枝さんは、ひたすらに”おかねさん”の着るものを手ずから作ったそうです。”おかねさん”は万大醸造の顔だから、恥ずかしいものは来させるわけにはいかないと、洗練されたデザインを勉強し、必死に作ったそうです。そのうち、”おかねさん”もただ出されたものを着るだけではなく、自分で気に入ったものを選ぶようになったそうです。

”おかねさん”は伊豆のお酒販売店では有名で、どんどん、万大醸造のお酒をそれぞれの販売店に売りに行ったそうです。その強引さはそれはそれはすごかったと、”おかねさん”を知っている販売店の人は言います。
販売店の人が、「そのお酒は1ケース置いて行ってください。」と言っても、”おかねさん”は5ケース置いていくのだそうです。その強引さはとても抗えることのできないほど。そして、”おかねさん”は、「大丈夫、このお酒は必ず売れますから」と付け加えたそうです。
”おかねさん”は、それぞれの販売店の商品棚も管理していたそうです。万大醸造のお酒を置く棚を自分で決めていたとまで冗談半分に言われていたとか。しかし、その”おかねさん”はそれだけではなく、色々と面倒見も良かったと言います。だから、みんなからは随分と好かれていたようです。

”おかねさん”が頑張っていた1960年代から1980年代は、伊豆にも7つの蔵元があったそうで、競争は非常に激しかったそうです。それでも、まだ、日本経済は上り調子。伊豆にも大勢の観光客がやって来ていた時代だから、”おかねさん”が働けば働くほど蔵元は繁盛していたとのことです。
そんな時代を懐かしむように、久枝さんは”おかねさん”のことを思い出しながら話してくれました。

しかし、”おかねさん”のやったことは全てうまく行ったということもないようで、何か揉め事が起こると、弁護士である”おかねさん”の旦那さんが物静かに、問題を解決したとのことでした。旦那さんはそれ以外は、一切お酒のビジネスには関わらなかったようです。

”おかねさん”が亡くなって、時代は次第に変わっていく。日本経済もバブルがはじけて、いきなり倒産する会社が増えていった。お酒の業界でも、飲酒運転撲滅運動が大きく影響し、お酒の需要が急激に落ち込んでいったようです。また、観光客も激減し、この醸造の世界にも氷河期がやって来たのです。そして、今では残念ながら伊豆に万大醸造だけが生き残ることとなってしまった、とおかみさんはもの哀しげに語ってくれた。

その全てを見て来た久枝さんの思いは、「私どもは地元の人に救われたんです」の一言。
「だから、私たちは地元の田代のお米を使ってお酒を作らせてもらうんです。」
「だから、私たちは、今、地元の皆さんと一緒になって、地元の活性化の為に尽力を尽くしたいんです。」

久枝さんの言葉の端々に、この地元想いを感じることができる。”おかねさん”もすごいが、実はこの久枝さんも、別の意味ですごい人。優しい思いを持ったこの久枝さんと話している間、私はこの久枝さんの虜にされてしまいました。

お酒の蔵元に来て取材をしようと思っていたが、全てが、”おかねさん”と久枝さんの魅力に圧倒されて、取材終了。
お酒の話は、別の機会に書くことにします。