願成就院の運慶の阿弥陀如来を見て来ました

伊豆の韮山といえば?

世界遺産の韮山の反射炉とそれを作らせた幕末の江川太郎左衛門(担庵)でしょう。

頼朝が幽閉されていた蛭ヶ小島、結婚した北条政子、そして、その父親の時政も有名です。

もう一つは後北条の祖である北条早雲の旗揚げの地である。これはあまり知られていません。

すなわち、鎌倉時代と室町時代後期と江戸末期・明治初期に著名な人々が活躍した地であります。

そんなところに願成就院という真言宗のお寺のあることをご存知でしょうか?
『吾妻鏡』によると、1189年に北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したという。

この寺には運慶が1186年から造り始めたという阿弥陀如来座像、不動明王と二人の童子、毘沙門天像の5体の彫刻が残っている。これらは昭和に入りX線撮影で、阿弥陀如来像の中に塔婆が入っていることが分かり、その塔婆には運慶と北条時政の名前が入っていたことから運慶の作品と判り、国宝と認定された。
日本全国には運慶自身が彫った作品は全部で31体しか残ってなく、そのうち5体がこの願成就院にあるのです。

1491年に北条早雲による動乱で願成就院はほぼ全焼してしまった。本尊を始めとする仏像数躯は僧侶らの手によって運び出され焼失は免れたという。その後、江戸時代に北条の末裔、北条氏貞が願成就院を再建し、現在の遺構はほぼその当時のものである。

ここを訪れてびっくりしたのは受付に外人の男がいることだ。聞いてみるとキースさんという人で、スコットランドから来ている。このお寺の娘さんがイギリスに留学している時に知り合い、結婚し、日本に来たというのだ。
今では得度を済ませたというので立派な僧侶である。
因みに、昔と今とでは得度の意味が違うが、今では、国家試験で僧侶の資格を得たということである。

このキースさんと話をしてみた。キリスト教から仏教に改宗したのかと聞くと、12歳の時にキリスト教をやめ、無宗教になったという。その彼に仏教はどう思うかと聞くと、仏教は哲学だと答えてきた。私はその通りと答えて握手した。

話を運慶の阿弥陀如来像に戻す。運慶の若い時代の作品で、阿弥陀如来像の顔はふっくらしており、胸板も厚く掘られている。表情は慈悲深く、ついつい、手を合わせたくなるほど。国宝の運慶の阿弥陀如来像を3mの近くで見られるのは、願成就院が実際の真言宗のお寺だからである。一度行ってみる価値はあります。

このお寺を建てた北条時政のお墓に参って来た。

 

万大醸造の地酒を紹介します。

万大醸造の代表的なお酒は、”伊豆の地酒”、”修善寺の地酒”、”大吟醸”、”純米吟醸”などがあります。

地酒らしい名前のついたものは、”修善寺”、”鶴生”、”江川の担庵”、”独鈷”、”萬燿”などです。

おかみさんの久枝さんに、焼酎”鬼の念仏”の話を聞来ました。
実はこのラベルの絵が面白いから、これには何か謂れ(いわれ)があるのではないかと思い、軽い気持ちで聞いて見たのです。ところが返って来た説明にびっくり。
このラベルの絵は大津絵なのです。
大津絵に登場する鬼は、「風刺画」と呼ばれることからもわかるように、人の愚かさや邪悪さを象徴した存在です。
中でも「鬼の寒念仏」は、僧衣を纏(まと)う鬼が偽善者の姿を表しています。
知らぬは本人ばかりなのか、顔かたちは鬼のままで、衣装・小道具だけを僧侶にしても無駄だということです。

この大津絵は伊豆下田あたりのお寺にあったそうで、それを見つけた万大醸造がこの図案が面白くて、この焼酎に使ったそうです。

もう一つ、私は疑問を投げかけました。「伊豆地酒の名前に、どうして、”伊豆の踊り子”がないのですか?」と。

すると久枝さんがこう説明してくれました。
「その通りなんです。実は”伊豆の踊り子”の名前で紅白のワインセットを作ったことがあります。何とかしてこれを素晴らしい商品にと考え、化粧箱やデザインを専門家に頼んで企画しました。ところが、デザインに凝りすぎて、費用がかかり過ぎ、結局価格が高くなってしまったんです。かくして、この企画は見事に失敗してしまったんです。」とあっけらかんと話してくれました。

しかし、久枝さんは続けます。
「私どもは地元の皆様のお役に少しでも立ちたい考え、今は伊豆全域の果物農家さんと協力し合っているんです。そこで、色々なフルーツ酒を作り始めました。みんなで手を取り合っていい商品を世の中に出していきたいと考えています。息子も銀行を辞めて帰って来てくれましたから今は大変気強いです。」

社長の佐藤智昭さんにも会いました。すごく気の良さそうな人で、長年、大阪の銀行に勤めていたが、母親の思い、従業員の思い、また、地元のみなさんの思いに、一大決心し、伊豆に戻って来たそうです。

頑張っておられる皆さんにエールを送ります。

頑張れー。

美味しい、お酒、焼酎、ワインを作ってください。この度はお忙しい中にお邪魔し、ご迷惑をおかけしました。しかし、大変いい勉強になりました。
因みに久枝さんと一緒に写っているのは私の家内です。

”万大醸造”を訪問をご覧ください。

万大醸造を訪れました。

伊豆の地酒蔵元の万大醸造に前日電話をかけました。
すると、電話の向こうから、軽やかな、しかも、気品ある声が聞こえて来ました。
簡単に、訪問したい旨の説明をすると、快く、「それはそれは….、お気をつけていらしてください」と返って来ました。受話器を置いて、初めて、「いくつくらいのおかみさんだろうか?」と思うほどでした。

翌朝の10時過ぎに蔵元を訪問しました。場所は修善寺駅から車で10分くらいの高台にありました。そこからは、伊豆の田代の田んぼが見渡せました。
私どもが訪れた時には、かの高貴なおかみさんが待ってくれていました。
蔵元の門は、思ってた以上に立派で、門を入ると直ぐ左に立派な屋敷がありました。そこには大きな池があり、山から流れる綺麗な水の中に立派な鯉が泳いでいました。

おかみさんは直ぐにその屋敷に案内してくれました。その屋敷はショールームに使われているようで、そこには蔵元が作っているお酒、焼酎、ワインなどがたくさん並べられていました。この屋敷はあるお寺の建物を移築したもので、なるほど、お寺の雰囲気が残っていた。

早速、おかみさんは、私が質問する前に、先代の”おかねさん”の話を始めました。

私はおかみさんを制して、「万大醸造は、いつからお酒を作っていたのですか?」
すると、おかみさんは多分、”おかねさん”の3〜4代前からではないでしょうか、とはっきりした回答は得られませんでした。江戸末期か明治の初めかもしれません。
ところが、話のところどころに、江川太郎左衛門の話も出てくるので、私なりに、江戸末期にスタートしたものと解釈しました。

因みにおかみさんの名前は久枝さんと呼ぶそうですので、ここからは親しみを込めて久枝さんを使わせてもらいます。
久枝さんにとって、今の万大醸造を語るには、やはり、”おかねさん”抜きには語れないようです。

その”おかねさん”は随分と働き者で、久枝さんが嫁いで来た時には、すでに、伊豆全域に”おかねさん”の名前は知れ渡っていたそうです。
当時の”おかねさん”は万大醸造のお酒を何とかして売らないといけないと必死だったようです。男勝りの”おかねさん”の頭の中は、いつもお酒を売ることだけしかありません。だから、家事のことは一切御構い無し。当然、衣食住も御構い無し。着るものも自分で買うことなどなかったそうです。
そんなところに嫁いできた久枝さんは、ひたすらに”おかねさん”の着るものを手ずから作ったそうです。”おかねさん”は万大醸造の顔だから、恥ずかしいものは来させるわけにはいかないと、洗練されたデザインを勉強し、必死に作ったそうです。そのうち、”おかねさん”もただ出されたものを着るだけではなく、自分で気に入ったものを選ぶようになったそうです。

”おかねさん”は伊豆のお酒販売店では有名で、どんどん、万大醸造のお酒をそれぞれの販売店に売りに行ったそうです。その強引さはそれはそれはすごかったと、”おかねさん”を知っている販売店の人は言います。
販売店の人が、「そのお酒は1ケース置いて行ってください。」と言っても、”おかねさん”は5ケース置いていくのだそうです。その強引さはとても抗えることのできないほど。そして、”おかねさん”は、「大丈夫、このお酒は必ず売れますから」と付け加えたそうです。
”おかねさん”は、それぞれの販売店の商品棚も管理していたそうです。万大醸造のお酒を置く棚を自分で決めていたとまで冗談半分に言われていたとか。しかし、その”おかねさん”はそれだけではなく、色々と面倒見も良かったと言います。だから、みんなからは随分と好かれていたようです。

”おかねさん”が頑張っていた1960年代から1980年代は、伊豆にも7つの蔵元があったそうで、競争は非常に激しかったそうです。それでも、まだ、日本経済は上り調子。伊豆にも大勢の観光客がやって来ていた時代だから、”おかねさん”が働けば働くほど蔵元は繁盛していたとのことです。
そんな時代を懐かしむように、久枝さんは”おかねさん”のことを思い出しながら話してくれました。

しかし、”おかねさん”のやったことは全てうまく行ったということもないようで、何か揉め事が起こると、弁護士である”おかねさん”の旦那さんが物静かに、問題を解決したとのことでした。旦那さんはそれ以外は、一切お酒のビジネスには関わらなかったようです。

”おかねさん”が亡くなって、時代は次第に変わっていく。日本経済もバブルがはじけて、いきなり倒産する会社が増えていった。お酒の業界でも、飲酒運転撲滅運動が大きく影響し、お酒の需要が急激に落ち込んでいったようです。また、観光客も激減し、この醸造の世界にも氷河期がやって来たのです。そして、今では残念ながら伊豆に万大醸造だけが生き残ることとなってしまった、とおかみさんはもの哀しげに語ってくれた。

その全てを見て来た久枝さんの思いは、「私どもは地元の人に救われたんです」の一言。
「だから、私たちは地元の田代のお米を使ってお酒を作らせてもらうんです。」
「だから、私たちは、今、地元の皆さんと一緒になって、地元の活性化の為に尽力を尽くしたいんです。」

久枝さんの言葉の端々に、この地元想いを感じることができる。”おかねさん”もすごいが、実はこの久枝さんも、別の意味ですごい人。優しい思いを持ったこの久枝さんと話している間、私はこの久枝さんの虜にされてしまいました。

お酒の蔵元に来て取材をしようと思っていたが、全てが、”おかねさん”と久枝さんの魅力に圧倒されて、取材終了。
お酒の話は、別の機会に書くことにします。

北条政子の産湯の井戸


北条政子の産湯の井戸は静岡県伊豆の国市にある旧跡である。

北条氏邸・円成寺跡の東側に位置する井戸であるため、いつの頃からか「政子産湯の井戸」と呼ばれるようになった。本当の北条政子産湯の井戸は隣接する北条氏邸内にあったと考えられる。今の産湯の井戸は石造りの井戸で、明らかに江戸時代以降の井戸であるから時代的にはこれが政子の産湯の井戸とは言えない。

しかし、昔から近隣の人々の間に、「この井戸に安産を願う」という信仰などがあったという。

北条政子は1157年に生まれ、1225年8月16日に死す。
彼女は鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室となった人。

もともと、伊豆国の豪族の北条時政の長女で、子は頼家、実朝、大姫、三幡。

彼女の兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子などがいた。

彼女は周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所(みだい)あるいは御所台(ごしょだい)と呼ばれた。

夫の死後に落飾(貴人が髪をそりおとして仏門にはいること)して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。

法名を安養院(あんにょういん)といった。

頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡(かいらい)将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。

なお、「政子」の名は1218年に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それより前の名前は不明であった。

<北条時政は、奥州征伐の戦勝を祈願して、願成就院を建立しました。>