修禅寺に来てみれば・・・

修禅寺(しゅぜんじ)は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院。夏目漱石の「修善寺の大患」や岡本綺堂の「修禅寺物語」でも名高い寺院である。

何か字がバラバラなのは筆者の間違いではない。

地名は「修善寺」、寺名は「修禅寺」で表記が異なるが両方とも「しゅぜんじ」と読む。

807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられ、その後の約470年間は真言宗に属していたそうだ。その後、鎌倉時代初期に修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになったのだ。

また、源頼朝の弟で、義経の兄である源範頼はこの寺に幽閉され、その後、この地で殺害されたとしても知られている。また、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家も同様、ここに幽閉されて殺されてしまった。

1249年頃、元の密偵と疑われて逃げて来た蘭渓道隆来住し、それに伴って臨済宗に改宗された。その後、伊豆一国を収めた北条早雲が、彼の叔父の隆渓繁紹に曹洞宗の寺院として再興させた。

また、この寺額は1863年(文久3年)の火災で焼失した。波乱万丈のお寺。

真言宗から臨済宗から曹洞宗に変わっても、基本は修行のお寺である。

この修善寺温泉は観光客が減り、旅館もホテルも青息吐息状態。

温泉を歩いているのは中国人ばかり。

しかし、私はこの温泉町が大好きなのだ。

なぜか?

空海に会える気がするから。

空海(弘法大師)が807年に修善寺を訪れたとき、桂川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その孝行に感心した大師は、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させた。大師が温泉が疾病に効くことを説き、これにより父子は十数年来の固疾を時間を置かずして完治させることができた。という伝承が残っている。これよりこの地方に湯治療養が広まり、修善寺温泉が始まったとされる。

韮山の反射炉

 

江戸時代のお終わりには、薩摩藩主の島津斉彬が長崎に多くの藩士を送り込み西洋の学問を取り入れた。

長州藩も同様に藩士を送り込んだ。これは長州藩主が送り込んだのではなく、吉田松陰の門下生で学問に目覚めた藩士たちが独自に学びに行ったのだ。

ところが、伊豆国韮山を本拠にした徳川幕府の世襲代官の江川太郎左衛門という人がいた。

この人は学問好きで、当時の文献を長崎から取り入れ自ら勉強していた。

そんな折、オランダ医師のシーボルトが帰国する際に伊能忠敬が描き上げた御禁制の日本地図を贈ったという理由で高野長英は幕府から追われる身となる。

高野長英は当時の蘭学者の中ではNo.1の語学力を持っていた。その長英は全国を逃げ回るのであるが、長英の語学力を知っているので先進的な藩主は高野長英を匿い、自分の持っている書物の翻訳を依頼したのだ。

ところが、代官の身である江川太郎左衛門も長英を匿い、自分の持っている蘭学書の翻訳を頼むのである。

幕府から追われている高野長英を匿うなどとは、本来、代官のやることではない。

しかし、江川太郎左衛門は不遜にも翻訳だけではなく、自らも直接、長英から多くを学んだという。

そして、反射炉まで作ったのだ。反射炉とは金属融解炉のことで金属の精錬に使われる。当時は主に鉄の精錬を行い大砲を作っていた。

江川太郎左衛門の記念館は韮山反射炉の側にあり、行ってみると江川太郎左衛門の綺麗な自筆が残っている。この字を見るだけで、勉強とはこうしてやるものだと実感できる。

この韮山の反射炉は、頼朝が幽閉された蛭ヶ小島のすぐ近くにある。

鎌倉幕府がここでスタートしたのだ

鎌倉幕府は鎌倉でスタートしたと考えている人が多いのではなかろうか。

しかし、源頼朝は平清盛に伊豆韮山の蛭ヶ小島に幽閉されたのだ。

今では、いちご畑が一面にあり、夜もそのいちご畑の温室の光が赤々と輝いている。

この頼朝に北条政子が通うとこから、鎌倉幕府が始まった。

伊豆の国市に行くと、その事が感じられる。

ここに来てみると、歴史の匂いがプンプンとする。