韮山の反射炉

 

江戸時代のお終わりには、薩摩藩主の島津斉彬が長崎に多くの藩士を送り込み西洋の学問を取り入れた。

長州藩も同様に藩士を送り込んだ。これは長州藩主が送り込んだのではなく、吉田松陰の門下生で学問に目覚めた藩士たちが独自に学びに行ったのだ。

ところが、伊豆国韮山を本拠にした徳川幕府の世襲代官の江川太郎左衛門という人がいた。

この人は学問好きで、当時の文献を長崎から取り入れ自ら勉強していた。

そんな折、オランダ医師のシーボルトが帰国する際に伊能忠敬が描き上げた御禁制の日本地図を贈ったという理由で高野長英は幕府から追われる身となる。

高野長英は当時の蘭学者の中ではNo.1の語学力を持っていた。その長英は全国を逃げ回るのであるが、長英の語学力を知っているので先進的な藩主は高野長英を匿い、自分の持っている書物の翻訳を依頼したのだ。

ところが、代官の身である江川太郎左衛門も長英を匿い、自分の持っている蘭学書の翻訳を頼むのである。

幕府から追われている高野長英を匿うなどとは、本来、代官のやることではない。

しかし、江川太郎左衛門は不遜にも翻訳だけではなく、自らも直接、長英から多くを学んだという。

そして、反射炉まで作ったのだ。反射炉とは金属融解炉のことで金属の精錬に使われる。当時は主に鉄の精錬を行い大砲を作っていた。

江川太郎左衛門の記念館は韮山反射炉の側にあり、行ってみると江川太郎左衛門の綺麗な自筆が残っている。この字を見るだけで、勉強とはこうしてやるものだと実感できる。

この韮山の反射炉は、頼朝が幽閉された蛭ヶ小島のすぐ近くにある。

鎌倉幕府がここでスタートしたのだ

鎌倉幕府は鎌倉でスタートしたと考えている人が多いのではなかろうか。

しかし、源頼朝は平清盛に伊豆韮山の蛭ヶ小島に幽閉されたのだ。

今では、いちご畑が一面にあり、夜もそのいちご畑の温室の光が赤々と輝いている。

この頼朝に北条政子が通うとこから、鎌倉幕府が始まった。

伊豆の国市に行くと、その事が感じられる。

ここに来てみると、歴史の匂いがプンプンとする。